出会いと感性の相互作用
“亜甲絵里香と表現芸術"探索ルポー
Intervieu erika・akoh and her children.

  • 斉藤律子
  • Photo 塩谷 武

駅の改札。待ち合わせ時間。雑踏の中から彼女が現れた。小走りで近づいて来る姿は、まるで妖精がアスファルトを滑っているような。舞踊家特有のきゃしゃで軽い雰囲気。初対面ながら彼女であると遠くから確信した。

亜甲絵里香。舞踊家兼振り付け家。1981年に渡仏して以来、国際的な活動ぶりは周知のとおりだ。昨年末も、パリ市とパリ第13区共催のダンスフェスティバル、「サロン・ド・ラ・ダンス」に出演した。国内においても、自分のスタジオで3歳から50歳代の方々への創作活動・技術指導にいそしんでいる。超多忙な毎日。彼女のエネルギーの源を探るかのごとく、まず渡仏のきっかけから尋ねてみた。 「恩師の高田せい子先生が、海外で舞踊活動をなさっていたときの話の中にFフランスが一番良かった』と聞き、いつか行きたいと患っていました」

故高田せい子は、まだ日本にバレエが知られていなかった1920年代、アメリカからヨーロッパに渡り、日本のバレエ・モダンダンスの歴史を築いた舞踊家である。彼女の最後の弟子として多くのことを学び、生きていく上で様々な影響を受けた。また、彼女と出会って自分をダンスの道へ投じることができた。その彼女が言っていたフランスで踊り、何かを得たい。目に見えない目標に胸膨らんだ渡仏だったにちがいない。

フランスで踊った感想が続く。「見せる側だけでなく、観客側の成熟度が非常に高いです。踊りが終わるとかけよってきて、ここがよかった、あそこはこうしたほうがいいなどと、良きも悪しきも私の踊りから受けとめたことを一生態命伝えてくる姿勢に驚きました。この間出演した『サロン・ド・ラ・ダンス』は、パリ・オペラ座のソリストをはじめ、舞踊各種のベテランの方々が出演するのに、入場料は無料。いつでも質の良い文化を享受できる環境なんです。芸術を表す側と、それを受け止める側の相互作用が高度な文化を生んだ国であることは言うまでもありません。日本だと勉強・受験、仕事が最優先。ごく限られた人たちがダンスを続けられる。見る側も同様に限定されている。なかなか難しいですね」これまでスタジオの生徒がぶつかる壁を何度となく見てきた。勉強が忙しいからやめる。続けていくには障害が多すぎる国内教育状況。それを乗り越えたとしても将来生活を成り立たせることの難しさ。日本では芸術のどのジャンルにおいても、才能があるだけでは続けられない現実がある。生徒の親からも随分相談を受けた。今までの人生経験を彼女なりに消化し、言葉を選ぶ。生徒一人一人と真剣に向き合おうとする姿勢。人間を内側からひとまわり広げてくれる彼女の言葉に「人生構築・アドバイザー」を感じ、救われた人も多い。

亜甲流教育と子供たちの成長と

亜甲氏には3人の子供がいる。ためらわずに「私の宝物」と。それを聞く子供たちの目はおおらかで優しい。だが同時に何か強い意志を感じる。まだ記憶が形成されないころから当然のように踊ってきた子供たち。3人の踊ることに対する考え方に興味がある。

高田せい子氏のレッスン中、一緒にリズムを取って遊んでいた長男寛一君は、踊ることを自分の意志で選びつつある。先日「サロン・ド・ラ・ダンス」で亜甲氏と共演。踊る楽しみをかみしめているであろうと思いきや、開眼したのは基礎レッスン。

「自分は下手であるというプレッシャーがあるんです。心の中の何かを出すことが出来るようになりたい、やりたい踊りをやっていきたい、基礎をやるのはそのための体作り。準備期間なんです」

何かを見いだし、自分の糧として着実に身につけていくタイプ。将来の自分の「形」に向かって一歩一歩大地を踏み締める。謙虚に自分を「準備期間」と名乗る分、その「一歩」の力強さを感じさせる。

「ぼくは将来ミュージカル俳優になりたい」次男の寛司君の笑顔。F1、サイクリング、ギターなど踊ること以外にも多彩な趣味を持つ。

「みんなで何か一つのことを作り上げていくこと、それを形として表すことが楽しい」なぜ舞台に立つのか、その概念をさらりと言う。10歳のときに出演したミュージカルの印象が強かった。その経験をダンスに反映させる。あるいは踊った経験を、違うジャンルの舞台で生かしてみる。あらゆる試行錯誤の中で可能性を試し、自分の方向性を見出そうとしている。お兄さんとはまたちがったたくましさだ。

「好きな事を楽しみながらやって、本人がそれを本当にやりたくなったとき、初めて厳しい状況を与えます」と、亜甲氏。親、師の使い分けを器用に行っているように見えるが。長女華織さんがゆっくりとした口調で亜甲氏について語った。

「ママはレッスンのときも普段のときもあまり変わらない。怒るとこわいけど」

この言葉が、少し照れを含んだママの顔にさせた。華織さんはフランスで活躍しているママをとても尊敬している。大きくなったらバリの舞台に立ちたいと。まだ「我」の成立していない、あどけない表情。逆に言葉の信憑性がある。

楽しみですね、こちらの問いかけに答える亜甲氏の顔は幸せに満ちていた。

†偶然が必然を呼んだ出会い

自宅の中にはそれぞれ一日を語るに欠かせない、1本のバーがある。家族団欒のひとときに、このバーを通じて会話が弾む。壁には様々な舞台写真.舞台記録の代表作が飾られている中、一つの写真が目立って見える.故高田せい子氏だった。なんとなくイサドラ・ダンカンに似ている。

「先生はイサドラの踊りを見て、大変感銘を受けたと言っていました。その彼女から踊りと並行して、色々な哲学『真・善・美・愛』を学びました。それを基に、創作活動を続けています。そういえばこの間不思議な出会いをしました。『サロン・ド・ラ・ダンス』に出演したとき、『あなたの踊りはイサドラにそっくりだ。すばらしい』と声をかけてきた人がいたんです。

その人はかつてのイサドラの弟子だったという。亜甲氏は半信半疑で、イサドラの膨大な資料を見せてもらった。そしてその人との出会いを心から喜んだ。イサドラ・ダンカンの踊る姿、高田せい子の踊る姿、それを引き継ぎ歴史の中の一部として次世代に継承していく亜甲絵里香の存在。

まさにそれを確認するかのようなショッキングな資料だった。運命の出会いの神秘に驚かざるをえない。精神面でまた一歩前進した。

これまで決して順風満帆とはいかない道のりだった。だが、決してそれをマイナスにとらない。むしろ良い方に考え、明白に希望を持とうとする強さのみでここまでやってきた。その踊りを思う一心にやってきて、やっと最近軌道に乗りはじめたという。

「あなたは今まで大変な苦労をなさったのでは? でも、あなたは何かをつかみましたね。その光が私には見えました」

亜甲氏のダンスをそのまま受けとめ、声をかけてきてくれた観客の温かいことばである。

「今日の自分の生命力をフレッシュに感じながら真っ白な世界を作っていきたい」 生き生きと語る亜甲氏。彼女を純粋に見つめる子供たち。今晩も家族の団欒で一日の充実ぶりを語り合っているだろうか。別れ際、礼儀正しくお辞儀をし、嬉しそうにレッスンに出掛けていった彼女の後ろ姿がいつまでも脳裏に焼き付いてはなれなかった。

Scene(セーヌ)1992春 冬 第5号

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