初めての世界コンクール

瀬河華織

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最近、私は世界のコンクールに出て本当の自分を試したい、そして振付家の母(亜甲絵里香)の踊りをもっと世界の人々に見てほしいという気持ちがとても強くなっていきました。そういう時に母からロシアのノボシビルスクという所で国際振付家コンクールがあることを知らされ、私は迷わずに「出たい」と言いました。でも「ロシア?」、一度も行った事の無い国なので想像もつきませんでしたし、ロシアに行く当日まで実感がありませんでした。

でも初めて行くロシア、初めて出場する世界コンクールだからこそ、わくわくし何があるのかわからないけれど、行けばまた新しい出会いを持てるし、私にしか出来ないすごい経験が出来る。ただ自分に与えられたチャンスに乗り前進するのみだと思いながら、ロシアへ向けての母の振付け、「希望への脱出」と「安達原」の二作品に打ち込みました。いろいろと忙しく、振付けに入ったのは出発まで二ヶ月あったかないかでした。

今回のロシアのコンクールはダンサーのテクニックのコンクールではありません。振付家のための創作コンクールです。私はこの短い期間で特に「安達原」という深いテーマ、そして「希望への脱出」=母の人生から振付けられた、この二作品、母の訴えたいことをどこまで理解でき表現することができるかが勝負でした。

私は小さい時から母の踊りを見てきましたが、このコンクールをきっかけに初めて私が母の踊ってきた本物の踊りを踊れることになりましたが、とっても大変でした。母は、ここはもっと表現して欲しいなどと色々な母の人生を説明しながら私にどんどん要求してきます。私は凄く悩みました。もし私がまったく同じ人生を歩んでいたなら、100%亜甲絵里香の訴えたい踊りが踊れるのに……。でも私は私なりの19才までの人生の中で、母の話を素直に受けとめながら、踊りにうちこんでいきました。そしてとうとうロシアまで行ってしまいました。

5月2日に開会式がありました。舞台の上には審査員が並び、各国の振付者が一人ずつ呼ばれた人から舞台へ上がって、その前を通ってその場で出演番号をひくのです。「Japan Erika Akoh」と呼ばれ母が舞台へ上がっていきました。さぁコンクールの始まりです。私と母は喜びと期待でわくわくしていました。コンクールでは、モダン、クラシック、民族舞踊、チルドレンダンス、とあり私はモダンの部で母は33番をひきました。やはり、ロシア、アメリカ、フランス、中国など色々な国から集まっているので、とってもにぎやかな開会式でした。

そして明日から始まるはずのコンクールがなんとこの日から始まることになり、衣装も持ってきていなくてどうしようかと思いましたが、30番まで審査をし31番からは明日になると聞き、ぎりぎり助かったと思いました。外国はよくスケジュールが変わるので覚悟はしていたけれども、やっぱりびっくりしました。

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5月3日、本番の日です。予定では31番から始まり3番目に出るので、早く劇場へ行き楽屋で準備していたら、通訳のイリナさんという方が「昨日は15番までしか審査できなく、16番から始まります」と言われ、また私の予定が狂いました。楽屋はもちろん外人ばかり、私はまだ夢みたいでした。シベリアフェアーで見本市などが開かれていて、その中にコンクールがあったので、すぐ隣ではロックの様な曲がジャンジャンとなっているし、とってもがちゃがちゃしていて凄い雰囲気でした。

日本語はもちろんのこと、英語も通じません。なので自分がいつ出るのかも分かりませんし、番号が呼ばれるのも題名が呼ばれるのも全てロシア語なので、常に自分があと何番目に出るのかをイリナさんに聞きながら準備していました。本番の時、劇場の中は審査員と振付者一人しか入ってはいけない事になっていました。

一次予選では二作品の内一つしか踊れないので、日本的な特徴をもった踊り、安達原を踊ることにしました。これに合格すれば、二次予選で二作品見せることができます。

そして私の番になったのですが、とにかくすぐ隣のロック音楽がうるさく、安達原の曲がかすかに聞こえるか聞こえないかでした。私はソデで準備していて、よく耳を澄ましながら舞台へ上がりました。音が盛り上がる時の曲は聞こえていたのですが、静かな音は聞こえませんでした。でも踊りの役の心を消さずに最後まで演じることができました。

それからすぐに通る、通らない関係なくに選ばれたダンサーだけ、こんどはバスで一時間くらい離れた劇場へ移動し、ロシア人のお客さん達の前で踊りを見せるコンサートがありました。最初は二作品踊る予定でしたので希望への脱出を先に踊ることに決めていて、衣装も着替えておだんごをし準備していたら、時間の関係で一作品にしてほしいとまた突然言われて、やはり安達原が日本的で見せたいのでまたすぐに衣裳、髪形、気持ち、すべてをチェンジしました。もう常にどきどき状態でした。そんな時、開会式の時から顔なじみのかわいい女の子達が私に目があうたびにニコっと笑ってきてくれるのです。そして、また二回目の安達原を無事に終わることができました。帰りもまたダンサー達皆でバスで帰り、私達が途中で降りる時に皆が笑顔でさよなら、「ダスビィダーニャ」と迎えてくれた時、すごい嬉しかったです。

そして一次予選を通過することができ、二次予選がまた違う劇場でありました。ここでは希望への脱出と二つ踊ることができました。

二次予選ではお客さんも中に入って見ることができて、とってもにぎやかでした。コンクールなのに一作品一作品に拍手がきて、踊り終わった後、ブラボーと頂きました。そしてなんと審査員が私の踊りに拍手をくれたのです。コンクールは夜の11時ごろまで続きました。とにかくあきないのです。それは皆どの作品も個性があり、楽しく、きれいで、子供達一人一人が生き生きとしているのです。本当に踊っているのです。あぁ踊りってこうでなければいけないと思いました。こんな雰囲気だから、私も緊張をせずに楽しくコンクールに出ることができました。審査員もリラックスをし飲み物を飲みながら楽しそうに見ていたし、お客さんも審査員もダンサー達全てがダンスと一体になって、一つになっているのを感じました。

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二次予選も合格することができました。

さぁ、念願のオペラ座で決戦があります。オペラ座の中へ入った時、さすがに緊張しました。劇場の中はギリシャの白い彫刻が並んであり、舞台も広くまた傾斜しているのです。また予選の時と雰囲気が違います。周りはプロの様な外人ダンサー達がいっぱい、私はその中にいたのです。予選の時よりも緊張しました。そんな状態でソデで準備している時、同じ出演者達が私に英語で胸に手を合わせ「Very Beautiful」と何回も言ってきてくれたり、一緒に写真をとって下さいなどと言ってきてくれたり、そういう方達が私の緊張を無くし自信を持たせてくれました。母は客席で見ていたので一人でした。

そして私は初めてロシアのオペラ座の舞台へ一人で立ち、二作品を踊りました。自分の出番になり、「Kaori Segawa」と呼ばれた時には緊張もとれて、踊るぞという強い気持ちに変わっていました。

審査の話し合いは朝の八時まで続いたそうです。そして7日の朝11時ごろ発表があり、なんと33番が呼ばれたのです。こんどはガラコンサートでまたオペラ座で踊ることができます。あぁロシアで最後の舞台です。

広い広い舞台で、私はおもいっきり精一杯に心込めて最後まで亜甲絵里香の作品を踊ったのです。ソデからも客席からも皆が私を見ていた。私、瀬河華織の存在を精一杯に出しきったのです。希望の踊りの中で何だかわからないけれども涙が出てきたのです。そして身体が勝手に一緒に踊っていたのです。私も心込めて一生懸命に踊ったけれども、私一人で踊ったのではありません。神秘的な何か神の様なものに踊らされたというのでしょうか、光の中で私は踊っていた様に思います。踊り終わった時の、何ともいえないあの気持ちよさ、今でも覚えています。

ロシアで今回初めてお客さんの温かい拍手を頂いた時、何ともいえない幸せ、感動、本当にありがとうという気持ちを込めて挨拶をしました。

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そして表彰式が最後にありました。振付者が舞台へ立ち賞状をもらいます。母はちょうど真中へ出てきました。その時の姿は本当に嬉しそうでした。「おめでとうママ!やったね」と思いながら見ていました。この最後のガラコンサートではテレビ局が三つほどきており、私もインタビューされました。本当にスケールの大きなコンクールでした。このコンクールを無事に終える事ができたのは通訳して下さったイリナさんのおかげです。とにかく英語が通じないのです。楽屋や通路などに貼りだされているプログラムやアナウンス、全てロシア語なので私は常にイリナさんに聞いていました。楽屋も全て一人部屋をとって下さったりと本当にお世話になりました。

コンクールが毎日続けて行われ、気を抜かずにパワーで頑張りました。思いもよらない出来事がありすぎたりと精神的にも肉体的にも疲れたけれども、それ以上の喜びと宝を手にしたと思いました。そしてこのコンクールを通し、度胸と自信がつき成長した自分がわかります。私は生まれ変わりました。もう前までの私ではなくなったのをはっきりと感じています。私と踊りはいつも一緒にいたから何も怖くなかったし、最後まで頑張る事ができたんだと思います。自分を良くするのも悪くするのも、本当に自分の気持ちの持ち方だと思いました。

今回の二作品を踊ったことによって、亜甲絵里香の芸術をより愛し尊敬できましたし、今まで以上に踊りが好きになりました。こんな亜甲絵里香の娘であることを誇りに思います。

色々と助けて下さった飯島篤先生、鳥海先生、正岡さん、絵里香先生、心から感謝しています。

本当にありがとうございました。

2001年7月31日

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