光を求めて生きる――瀬河寛一に聞く

インタビュアー桜井勤(舞踊評論家)

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―― 初めてパリに行かれたのが1991年で、93年から学校に行かれたりして今に至っているのだけど、一つお聞きしておかなければならないのは、経済的な問題があると思うのですけれど。長い間どうしていたのですか。

寛一:学校に行って勉強している間は、ずっと母が助けてくれました。それでも学校の費用というのは国立の学校に行っていましたので、それほど高くはなかったのですが、それでも生活費とか色々と掛かってしまいますので、母がずっと援助してくれていました。それで、僕が学校を終わった時点で、もしカンパニーを見つけていなかったら日本に帰るという約束だったんです。それで、まだカンパニーが見つかっていなかったんですね。学校があったので、なかなか探す時間もなかったし、オーディションを受けたとしてもすごく難しい世界なので、その時点では無かったんです。それで、少しの間帰ってきていました。

でも、折角ここまでやってきたんだから、もう少しプロとして舞台で経験も積みたかったので、出来るだけのことをやろうと思って、いろいろバイトをしたりして頑張った末にカリウッド・ベンギーというモロッコ人の振付家なんですけれども、彼と出会いまして、それでプロとして初めて舞台に立ちました。でも、それではまだ安定した生活ではなかったのですが、僕にとって最低限の生活が出来て、踊りさえ踊っていければ、今の段階ではいいのです。

―― そうですね。日本に帰ってきたとしても思うようにいくとは限らないし、仕事の内容からいうと、日本に帰ってきたらなかなか良い機会は無いからね。

寛一: あの段階ではもう少し観たいものもがあると思っていましたし。

―― そう、やりたいことがあったんだね。ところで、大分前に観たのと、それから今度の公演で観たのを比べると、肉体的にも精神的にも幅が出てきたような感じがするんだけど…。

寛一: 有り難うございます。

―― 逞しくなったような感じがするんだよね。それは、恐らく内面的な事も…。

寛一: 普段の生活から全て繋がってくると思うんで、この外国に居た7年間の全てが今の段階で蓄積されてきているんだと…。

―― この間(5月19~21日、新国立劇場)金森穣の作品『悲歌のシンフォニー第3楽章』をみました。彼はすでに青山バレエフェスティバルでも新作をみせたことがあるが、今回のものをみて、私はキリアンの影響がひじようにあると思った。

寛一: 金森は僕と同じ年で25歳で、友達です。

―― ああ、そうですか。作品としては悪くはないが、多少解りにくい所が私にはありました。新国立劇場が出来てからバレエやコンテンポラリーに若い人が監場してくる可能性をようやくみいだせた気がしました。あなたも日本に帰って来て振付の出来るような環境になるといいと思うんだけれど…。

寛一:出来るならば日本に帰ってきてやりたいんですけれども、今までフランス、ヨーロッパにいて、色々観た、色々得たっていうことを伝えたい。フランス人が国籍に関係なく、良いものを観させてくれる、育ててくれるという事をしてきてくれた訳ですけれども、僕は日本人なので、日本の人達にもそういう学んだものを伝えていきたいって思うんです。それが直ぐに良い状況に繋がるとは思いませんが…。

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―― うまい時期に帰ってきて、活躍してもらわないといけないんだけど、帰ってくるのにも時期があると思うんですよね。

寛一:こういうことを言うとあれなんですけれど、言わないと良くならないから言います。だから、それが可能になる時っていうのは、矢張り日本の人達も色々なものを観て、自分で本当にこれが良い。これが悪い。有名だから良いとか有名じゃないから良くないではなく、自分の意見を一人一人が言える様になった時に、本当のものが育っていくんじゃないかと思うんです。日本にもとても鋭い目を持っている人もいるんですが、今の段階では、そうでない自分の意見をいえない人の方が多数を占めているように思います。何をするのも便利で生活には不自由が無くて、経済大国日本も良いですけれども、人間が生きていく上でもっと大事なものは何かということを、一人一人がもっと認識していかなければ大変な事になってしまうんじゃないでしょうかね。それは、向こうに行って、ダンスもそうですが、色々な人と人とのふれあい、心と心のふれあいを学びましたので、そう思います。フランスに行く前に日本に居た頃には、そういう人に出会うチャンスがあまり無かったです。それで何かを僕は求めていたんですね。それで、フランスに行って、僕の心が通じ合う人達と出会いました。こういう人達が矢張り居るんだと思いました。日本に居るより生活は大変ですが、僕はそんな便利さより、もっと本当に生きているんだと感じられる事の方が大切です。

―― 日本にいたら大変かもしれないですよ。

寛一: でも楽じゃないですか。何も身体を使わなくても生活出来てしまうし、碓かに楽で良いかもしれないけれど、それが無くなっちゃった時にどうするんでしょうか。

―― そうだね。今25歳だとしたら、後何年という設計をして、その段階まで頑張った方が良いかもしれませんね。恐らく日本もそんなに良くはならないでしょうけれどもね。

寛一:だから、僕はきっと何も求めはしないですね。でも、そういう人達が居てくれれば嬉しいし、一緒に何かやれれば嬉しい。ただ、僕は次の人達のために何か出来ればと思っています。僕の世代が何も変わらなくても、僕が今、こう感じているのだから、僕が何か行動を起こせば変わっていくかもしれないので、求める事より、自分が何かをやるしかないと思っているので、大変だと思いますが、それはやりたいです。

―― それは、クラシックとかコンテンポラリーとか分けないで、一つの踊りとしてやっていく訳でしょう。

寛一: そうですね。色々な分野はありますけれど、ダンスは最終的にはダンスだと思います。表現したいものは一人一人違うし、その一人一人の個性というものが大事だと思う。それで僕は踊るということで自分を表現する可能性を持っていると思うので…。

―― 何しろ良いスタートをして、良い学校を卒業されて来てる訳だから、色々と良い経験をしていると思うんだよね。あと、気持ちの合う人と接触してきている訳だから、そういう中で掴んでくるものが確かにあると思うんですね。それが将来踊り手として、また創り手としても役立つ事になるでしょうから。今、創ってもいるんでしょう。

寛一:今、少しずつは創っていますけれども、もっともっと僕の感じている心が、これからもっともっと敏感になっていくと思うんですね。そうすると必然的に振り付けで表す事になっていくと思うんです。でも、自分にその才能が有るかどうかは今の段階では解らないです。ただ、今感じていることの確かさは確かなので、今はダンサーとして表現しています。それがこれから、どのように変わっていくかによりますね。

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―― 貴方は向こうに戻ってもっと勉強をして…。

寛一:勉強というか、今までの段階では勉強で、色々なものを観たかったので居たのですけれども、現時点の段階で、ダンス・コンテンポラリーにしても、作品の表現方法として闇を表現するダンスが多すぎて、この人の作品を踊りたいと思う振付家がいないんです。それで、僕は踊っている以上は光を表現するダンサーでいたいので、僕の中で闇を表現しようとすれば出来るかもしれないけれど、でも、最終的に光が無いと問題は解決しないと思うんですよね。出来る限り、そういう希望とかを最終的には表現していきたいので、これから、もうちょっと様子を見ながらっていう感じなんです。これじゃなければ本当は今まで出会った友達と、色々な作品を創ったりして活動も始めたいんですけれど。ただ、お互いに働いていて時間がとれなかったりの問題で難しいんですけれど。今の段階では、友達と一緒に出来れば良いと恩っています。

―― 今、闇という話が出たのだけれど、何人かが在外研修員で海外に行って、色々振り付けている人が、名前は出さないがいるんだけれど、その殆どが闇を表現している。作品を観ると闇が多いんですね。光が無いんですね。また楽しいものも無理に創ると面白くない。そういう意味で、今の日本の振付家っていうのは、非常に若い人の中で停滞していると思うんです。ただこれは、こっちが年をとったから解らないのかもしれないよ。もっと若い人が観れば解るのかもしれないけれど、ただそういう系統が多いんですよね。だから、それと同じものを日本に帰ってきてやってもダメだと思うんだよね。やっぱりそうじゃないものをやらないと、一歩出れないと思うんです。

寛一:今の世の中は闇だとよく言われます。本当にたくさんの問題があって、それをダンスで表現しても、それは日常で見ている事なので、ダンスで踊っても確かに色々なことは表現出来るかもしれない。ダンスはやっぱりダンスなので、普段起こっている日常性というものをもっと上のレベルに引き上げる事は出来ると患うのですが、でもその闇に残っていても問題は解決しない思うので、そこの闇から光にどう導くかというのが大きな鍵を握っていると思うんですね。それは凄く難しい事だとは思うんですけれども、聞を表現するダンサーも振付家もたくさんいるんと思うんです。でも、最終的に人間は生きている限り一人一人の存在が輝きでないといけないと思うんで、その光を矢っ張り求めていさたいと思うんです。

―― 光を求めて生きていくというのは、ほんとうにいいことです。今日はいろいろとお話をありがとうございました。

8月15日絵里番バレエスタジオにて

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