亜甲絵里香とアルキス・ラフティー(第4回)
~ダンスにおけるドラマとスペクタクルの違い~

インタビュアー・構成飯島岱

21世紀への課題

亜甲: アルキスさんはイサドラ・ダンカンの研究家として著作もおありなんですが、ダンカンについて述べていただけますか?

ラフティー: ご存知のように、ダンカンは古代グリーク・ダンスに強い影響を受け、今世紀初頭に活躍しました。そして、モダンダンスの創始者の1 人として高い評価をえています。女性のダンスパイオニアとして。強い個性の持ち主であるだけでなく、特徴的なのは、彼女が『Dance Thinker』であったことです。ダンス思索家であったことが重要だと思います。

今日、優秀な振付家、ダンサーは多くいると思いますが、ダンス思索家は少ない。ダンカンは優秀な振付家、ダンサーであると同時に思索家であったのです。

―― ダンサー/振付家はダンスだけでなく、アクティングも出来なくてはならないと、前回言われましたが、さらにダンス思索家であることが重要ということですね。例えば、現在活躍しているピナ・バウシュ、イリ・キリアン、マツ・エック、ボリス・エイフマンについては如何ですか? 彼等の作品は『ダンス・ドラマ』とも評されていますが、併せてご意見を伺いたいのですが。

ラフティー:彼等の『ダンス・ドラマ』についてですが、確かに彼等はドラマの要素を作中に取り入れていると思います。が、これだけで『ダンス・ドラマ』といえるかどうか疑問です。辛辣かもしれませんか、偶々劇的要素を入れたにすぎず、表現としては、むしろ『ダンス・パントマイム』だと思います。彼等はダンス史、ダンス哲学、ダンス社会学、ダンス心理学、ダンス・リサーチ、ダンス学等を学ぶことは少なかったとも思えます。

ダンカンのダンサーとしての苦悩は、今言ったダンスにまつわる様々な要素を探求せしめ、その結果、彼女はモダンダンスのパイオニアとして評価を得たのです。そういった意味で残念ながら、彼等はダンス思索家でもないということです。

亜甲: 日本の舞踊界を考えてみると、私の周りの舞踊家/指導者にラフティーさんがおっしゃったことが当てはまると思います。それだけを彼等が考えているのではないと思いますが-ダンスは動くこと。How to moveつまり、技術こそ重要だ-そのことが彼等の生徒による発表公演の中心となっていると思える振り付け、演出が多い。私なりの言葉で表すならば、それらの踊りに心を感じないのです。

技術は当然必要なのですが、技術はあくまで心を表現する1つの手段にすきないはずなのです。が、技術、技術で大事な時間を過ごしてしまい、心を無視したダンサーが生まれてしまうケースを数多く見てきました。『ダンサーに心はいらない、動け、動くことがダンスなのよ!』と。

私はスタジオで生徒に接する時、常に自戒するのはそのことなのです。

パリを始め、ヨーロッパで踊る機会が増え、観客の皆様に理解を得たと思えるようになったのは、実は表現手段であるダンスを通して、私の心を訴えてきた、その私の心に観客の心が共振していると、舞台の上で私は感じ、公演終了後、観客の方々から掛けられる言葉から観客の皆さんも同じように感じてくれたんだと、実感出来た時からなのです。そのことは日本での公演でも多く感じるようになっています。

ラフティー: 貴女のいう心がどういう意味を持つのか、私がいうダンス思索家の意味するものとどのような差があるかは今は分かりません。だが、貴女が思索するダンサー、振付家であることを私は感じていますよ。

亜甲: ありがとうございます。私もダンス思索家とは何か、改めて考え続けたいと思います。

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―― 確かに今日の対談で語られている言葉を再検証する必要があると思います。特にラフティーさんは英語を、亜甲さんは日本語を使用し、私が間に入って翻訳し、進行しているので、ご両者の言葉をどこまで正確にお伝え出来ているか不安でもあります。このあたりをとりあえずお許し頂いて(両氏軽やかに笑う)さて、この対談も4時間を越えようとしています。(今夜の出演者たちがラフティーさんに声を掛ける。どうやら劇場の外で待ち合わせとの約束のようだ)最後に、いやでも21世紀を迎える訳ですが。

ラフティー:将来について私は楽観主義者ではないようです。むしろ、悲観論者の立場を取らざるを得ないようです。21世紀以降、ダンス界はどのようになっているのか?まずグリーク・ダンスは?このままでは進行しないでしよう。現役として踊っている50~70歳の次世代ではどうなるか。村々はより都会生活と変わらなくなるでしょう。文明の進化は必然的に都会-村といった生活の区分を平均化してしまうでしょう。そしてフォーク・ダンスはシティーダンスと化していくに違いありません。振り付けされたダンスをシティ・ダンスと言えるなら、そうなっていくに違いありません。社会的変化に追随するのでなく、明確な原型への思いがどこまで維持出来るのか。グリーク・ダンスに関わる全ての人々の、それこそ亜甲さんの言う『心』にかかっているのです。

原型への拘りとは、外形的な踊りの振りを言っているのではありません。かつて古代ギリシャで行われていた、アクティング=ダンシングを再び蘇らそうとこれまで続けて来た、この気の遠くなる地道な行為を次世代に引き継げるか。

先回申し上げたように少なくとも私は、私たちは難しいと思いますが、10年あるいは20年かかるかもしれませんが、アクティングもダンスも出来る者を輩出したいと、思っています。

俳優でありダンサーでもある。ダンスでもあり、演技でもある、そういったムーブメントをコンテンポラリ・ダンス界に期待しているのですが、どうでしょうか?シティ・ダンスがコマーシャライズしていくことを否定しているのではありません。否定しているのは、次々にベルトコンベアーに乗って製品を生み出していく、産業構造と同様に、規格品のみが圧倒的数量を生み出し、民衆の要望に応える形て、コスト的に廉価て提供されていく、そうしたシステムになってしまうことを止められるのでしょうか?ダンスもショウもラインに乗った製品となっていく道を止められるでしょうか?さらに言うならば、大衆の好みだからと、テレビでも舞台でも大掛かりな演出と、大袈裟な演技、複雑なステップが喝采を浴びています。

こうしたスペクタクルこそか今日的シアターと思われているのかもしれません。けれどもこれはシアトリカルでしようが、ドラマとは一線を画したものであると、言えるでしょう。従ってスペクタクルとドラマは違い、より困難な個性豊かな、1つとして同じ規格品ではないドラマツルギーを骨格とした作品を作り続けることがダンス・アーティスト全てに求められる時代が21世紀以降に再生すること。亜甲さんや他にも、まるで手作りともいえる丹念な作品作りを行っているダンス・アーティストを支える側の緻密で丹念で、さらに地道な努力を期待したのですが。

世界初の劇場、ディオニソス劇場が誕生した古代ギリシャで、当時のアテネ市は入場料を無料にし、市民に開放したことで市民の芸術への関心、芸術家の作品創造での意欲は増していきました。現在の人々はこの先史に学び得るのか。多少の経済危機があろうとも政治家は、行政は人々にこの先史を披瀝し、先史の失敗に学び、人々を劇場に集め、資金をダンス・アーティストに援助し、人々の心を潤沢に出来るのか?

と、ここまで考えると冒頭申し上げたようにいつの間にか悲観主義者になってしまうのですね。

亜甲:ダンスだけでなく、舞台芸術全般に対しての鋭い警鐘だと思います。私は今回の対談を通してたくさんのことをラフティーさんやグリークダンサーのみなさまのシンプルな踊りから学んだと思います。創造者として私はダンス思索家として日々を過ごしていきたいと思います。本当にたくさんのお話を頂いてありがとうございました。

―― 亜甲さんがおっしゃったことに尽きると思うのですが、ラフティーさんから最後に提起された問題を21世紀への課題と踏まえ、この対談を終わりたいと思います。ご両者とも長い間ありがとうございました。

ラフティー: こちらこそありがとうございました。亜甲さんの次作品に期待しています。是非来年(2000年)もアテネで新作を拝見出来ることを楽しみにしています。

亜甲: ありがとうございました。 私の作品をより多くのアテネの人たちに観てもらえるよう力を込めて新作に取りかかります。

セーヌ 2000年 春 第37号掲載

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