亜甲絵里香とアルキス・ラフティー(第3回)
~ダンスにおけるドラマとスペクタクルの違い~

インタビュアー・構成飯島岱

グリーク・ダンスを追及して 2

―― 前回の最後に亜甲さんから出されたご質問を、ラフティーさんにお答頂く前に、個人的な興味で恐縮ですが、今回の会議を『ダンス芸術学』、つまり、芸術としての『ダンス』を研究、発表されているのですが、この種の国際会議は頻繁に開催されているのでしょうか、又、日本から関係者は出席されているのでしょうか?

ラフティー:ユネスコには様々な分野の会議があります。毎年、国、地域を変えて国際会議が開かれます。過去に20年間、ユネスコの顧問として各種会議に参加していますが、残念ながら日本の研究家には出会えませんでした。日本で会議があって私が出席できなかったこともあるかもしれませんが。いずれにしても、日本の研究家と意見を交換したことはありません。日本にも行ったことがないんですよ。

―― そうですか。今回のこの対談が日本人研究家の目に留まり、来年のこの会議、又は、別の機会にラフティーさんと意見の交換が出来るといいですね。

亜甲: この対談を契機に、ラフティーさんとグリークダンスが対日するきっかけとなればいいんですが。

―― さて、前回の続きですが、ラフティーさんに質問です。何故彼女のグループだけを外部からこの会議に招いているのか。何を彼女に期待しているのかとの質問ですが。

ラフティー:まず、私は彼女に強く日本のシアターの伝統を感じたのです。つまり、私にとっての日本の伝統演劇観と無関係ではありません。そこには、アクティングの中にダンスがあり、ダンスの中にアクティングがある。ダンスとアクティングが同じであると感じるのです。これが重要なのです。

古代ギリシャでもアクティングとダンシングは同じことでした。現在のギリシャ、ヨーロッパ、アメリ力にはそれがありません。勿論、日本の現状もそうかもしれませんが、少なくとも彼女の舞台は違いました。

又、今日では演技とダンスは分離され、俳優とダンサーは別個であると思われています。俳優はダンスが出来ず、ダンサーはアクティングが出来ない。私の (プロの)グリークダンスカンパ二ーのダンサーもアクティングが出来ません。難しいとは思いますし、10年あるいは20年かかるかもしれませんが、私はアクティングもダンスも出来る者を輩出したい、と思っています。俳優でありダンサーでもある。ダンスでもあり、演技でもある、そういったムーブメントを彼女に期待しているのです。

さらに言うならば、今はテレビでも舞台でも大掛かりな演出と、大袈裟な演技、複雑なステップが喝采を浴びています。こうしたスペクタクルこそが今日的シアターと思われているのかもしれません。けれどもこれはシアトリカルでしようが、ドラマとは一線を画したものであると、言えるでしょう。従ってスペクタクルとドラマは違うのです。

かつて一般大衆用としてセリフ重視のドラマ、貴族用にスペクタクル重視のシアトリカル、といった分け方をした時代がありました。こうした演劇史を無視するつもりはありませんが、私はドラマを重視したいのです。今日このステージに登場した60歳から70歳の村人たちのステップをご覧になりましたか。決して難しいステップではありません。このシンプルなステップに"詩"を、“ドラマ"を私は感じるのです。

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―― 今日の彼女の舞台で、黒幕が宙を飛び、鬼女が姿を見せ、3~4分間、ただ、立ち、ゆっくりと手が動くだけ。併せて、2人の僧侶が同じく、ゆっくりとした動きで対峙していくシーンがありました。非常にシンプルな動きであるが故に、鬼女と僧侶たちの三角形の対峙、緊張関係が見えてきた訳ですが、このシーンに類似点を観たということでしょうか?

ラフティー:正にその通りです。非常に重要なドラマ観があったといえるでしよう。ヨーロッパではある種のイメージを伝えるのに、何十頁も費やすことが多いのですが、日本の俳句はたった2行でそれを表現する。そこに無駄を省き切った"詩"を私は感じるのです。今、貴方が指摘したシーンは正に、そのシンプルなアクティングの背後に拡がる世界が表現されていたと思うのです。

―― それを貴方は『ある種のフィーリングを感じた』とおっしゃったのですね。

ラフティー:そうなのです。私は余分なものを付け加えないために原形に拘り、前回申し上げた方法でグリークダンスを現在に蘇らせたいと願っています。表現方式は異なるけれども、『俳句』の示す世界が古代ギリシャにはあったと思います。言葉を変えて言えは私が拘る:グリーク・ダンス。で『俳句ダンス』を創りたいと思うのです。

彼女に期待することは、今申し上げている“シンプル"な中に“全てがある"ということ。古代ギリシャがそうであったように。

亜甲:毎回思うことですが、拝見するグリークダンスでは若い人からご老人まで、シンプルな踊りのリズムの中に1人1人の人生を感じます。そうしたことを私は自分のメンバーによく言って聞かせます。表現方法は違っていても自分たちの舞台で観客が感じてくれることを願っているのですが。人間の人生を身体で表現しているということを。

つまり、私が表現したいというものが、ラフティーさんと共通している、共に創作したい、と強く感じています。

ラフティー:古代ギリシャでは1つの言葉に歌があり、楽奏があり、ダンスがあると、感じられたものです。そして時代を経るに従って夫々、あたかも別のもののように別れていきました。日本の伝統、古来から日本人が潜在的に持っている哲学を彼女が内面にあると信じるが故に、彼女にはこのギリシャで共に学んで頂きたいのです。

残念ながら、日本でリサーチするには余りにも資料が少な過ぎ、難しいでしょう。少なくとも、6ヶ月位、ギリシャに滞在され、グリークダンスは勿論、ギリシャ音楽、ギリシャ演劇、さらには、ギリシャ哲学を研究して貰いたい。そうすれば、繰り返すようですが、彼女には既に、これまでの作品に現れているように、日本の伝統芸術、日本人の哲学があります。彼女の表現力、芸術性と合いあって、古代ギリシャ芸術の意図するものを含めて、新しい世界を表現することが出来ると期待しているのです。

―― 今後、ラフティーさんと亜甲さんの共同作業の進展が楽しみな反面、亜甲さんの今後の課題は物理的にみても困難さがみえるのですが如何ですか?

亜甲: 大変ですが、非常に光栄だと思います。今、日本の若者を見る時、彼らが “感じる"ことがなくなってきている、“感じる機会"がないのではないかと、思うことがあります。

物質的に恵まれ、望めば何でもすぐに手に入れることが出来、誰かがすぐに用意してくれるといった状態、いわば、思考する回路を失いつつある、と思えるのです。これは日本に限ったことではないのかもしれませんが。

古代の人々が“心に感じたまま"を表現し、互いに、その“心"を思いやり生きて来た、そうした個人と社会との関わりで“感じる心"、私流にいえば『感性』なのですが、この『感性』を生み出すことの大切さを若者たちに知らせなくてはならないと思うのです。その為には何をすべきなのか。

舞台であらゆるキャラクターを演じ、踊り、その舞台から何かを感じて貰う為には、何を踊るにしても、勿論演じる側の『感性』が磨かれてなくてはなりません。私はよくスタジオで学ぶ生徒たちと山に登り、川で共に遊びます。道端の花を摘みながら生徒個々の『感性』を見ようとします。若者自体に問題があるのでなく、個々の『感性』を摘み取ってしまっているシステムが社会に、若者を取り巻く環境にあることに気づいたりします。でも、こうした環境、社会の在り方に、若者に同情したり、敏感に反応しない彼らに絶望しているのではないのです。

私がこの困難な時代に生きていることを喜び、私自身、踊り手自身の『感性』を磨くことによって、初めて作品が生まれ、私がグリークダンスのシンプルな動きに感じたように、私の踊りのリズムが、若者に限らず全ての観客の心に、私の人生を感じて貰えるのだと、思います。

ラフティー: こんな時代であるからこそ、貴方のダンスが要求されていると思いますね。

―― いよいよ次は最終回となります。亜甲さんが最後に提起された問題を踏まえ、対談を進めていきたいと思います。

セーヌ 2000年 冬 第36号掲載

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