高田せい子のプロフィール

1910年代にエンリコ・チェケッティの直弟子となり、日本に初めて本格的なバレエを紹介し指導をした。
ジョヴァンニ・ヴィットリオ・ローシーに認められ、1922年に渡米、ニューヨークでイサドラ・タンカンとも出会い、その後5年間ロンドン、パリを中心に舞踊活動を行なった。
帰国後は1977年に82才で亡くなるまで活発に活動し、多くの弟子を育て、日本のモダン・ダンスの歴史を創り上げた偉大な舞踊家です。
その芸風は、音楽性と物語と叙情性の重視、流れるような身のこなし、そしてバレエのテクニックを基礎として外へ向かって流れるような表現で、厳しさを内に秘めた優雅さがあった。


1895年(明治28年)9月13日 金沢市に生まれ、石川県立第1高女を卒業後上京。 東京音楽学校(現・芸大)ピアノ科入学。
声楽家原信子の勧めで1914年(大正3年)帝劇に入り、イタリア人バレエマスター ジョバンニ・ヴィットリオ・ローシー氏の指導の下で原せい子と名乗って舞踊家の第1歩を踏み出す。
1916年 師の高田雅夫氏と結婚、一座を作って歌劇運動に乗り出す。当時の座員には藤原義江、田谷力三らがいた。 新星歌舞劇団、根岸興行、浅草オペラなどで活躍。
1923年 アメリカへ留学。ドリス・ハンフリー、ルース・セント・デニス、テッド・ショーンらの舞踊家と交流し、モダンダンスへの目を開き、ヨーロッパで高田雅夫と共に活躍。
1924年 帰国後高田舞踊研究所設立。
1929年 夫の高田雅夫を亡くし高田せい子と改名、ライバルの故石井漠と共に今日の現代舞踊の基礎を築き上げた。
戦後は山田五郎と組んで舞踊研究所を主宰し、門弟の教育にも努めた。
代表作は「湖底の夢」「沈黙の苑」「マヤの幻想」などがあり、故石井漠と並ぶ日本現代舞踊界の大先達として故江口隆哉、故平岡斗南夫、小沢恂子、安藤哲子、三輝容子ら多数の門弟を育てた。
創立当初のSKD(松竹歌劇団)の振り付け担当。
1958年 全日本芸術舞踊協会(現代舞踊協会の前身で、クラシックとモダンが一緒だった)会長に就任。
1959年 紫綬褒章。 
1970年 勲四等宝冠章を受けた。 18年間現代舞踊協会会長を努め、1976年会長を退き協会名誉会長となった。
1977年2月 生涯最後の作品「何故…!」を亜甲絵里香に振り付け、2月27日の照明合わせに立ち会い翌日動脈瘤のため入院。 3月19日 81才で逝去。